北海道旅行 北の果てより愛をこめてTOP > 学び > 網走監獄

網走監獄

 
明治時代になった後、時代の切り替わりと共に西南戦争をはじめとする様々な内乱が勃発し、多くの国事犯を生みました。明治18年(1885年)収容者は8万9千人と過去最高となり、監獄が飽和状態となった時、集治監を北海道に求めました。

19世紀に入って蝦夷が島(北海道)にロシアをはじめとする諸外国が調査をしに度々やってき、植民地にする勢いでしたので、明治政府が先手を打って開拓しようとしました。しかし資金と労力が不足しており、苦肉の策として重刑の囚人を労力として使おうとした事情があります。更に人口希薄な北海道に刑を終えた彼等が住み着いてくれたら一挙両得です。

明治23(1890年)年釧路集治監の分館として網走囚徒外役所が人口631人の小さな漁村に誕生しました。これが網走監獄のはじまりです。中央道路開削工事のため合計1200人もの囚人が送り込まれました。

工事は昼夜兼行の重労働で、山中深くなるに従い食料運搬もうまくいかず、栄養失調やケガで死亡者が続出しました。死んだ囚人はその場で埋葬されました。看守も含めて200人以上の犠牲者を出しながら網走〜旭川まで繋がる163kmにも及ぶ中央道をわずか8ヶ月間で完成させました。

北海道での囚人労働は他に炭鉱や硫黄採取など危険なことが多く、その都度犠牲を生み、「囚人は果たして二重の刑罰を科されるべきか」との国会での追及で明治27年に廃止されました。

忘れてはならないのは、他の街と網走をつないで延びる道路や鉄道の線路、現在多くの人たちが降り立つ空港、オホーツクの海の幸を満載して帰ってくる漁船が横付けする港、秋になると豊かに実る広大な農地も、みんな最初に作ったのは網走の囚人達だったとのことです。作業の過酷さに多くの囚人達がこの網走を終焉の地としながらもです。


寺永法専

明治26年網走に布教活動にやってきた僧がおり、一人の出獄者から獄中の状況を聞き、免囚保護に関わるようになりました。これが免囚保護の父と言われた寺永法専です。法専は毎月数回網走分監を訪れ、囚徒たちに教えを説き、しだいに出獄者を収容するようになっていきました。

明治40年には免囚保護団体「網走慈恵院」を創立しました。しかし、出獄者の収容は苦労の連続でした。中には逃走する者や再び犯罪を犯す者も少なくなく、まちも人びとからは「泥棒の下宿屋」「慈恵院ではなく危険院だ」などと非難を浴びながらも、法専は彼らをいたわり続けました。

慈恵院創立以来昭和3年までの保護人員は、のべ1307人にのぼりました。昭和12年法専は65年の生涯を閉じました。


 

学び記事一覧

網走監獄

明治時代になった後、時代の切り替わりと共に西南戦争をはじめとする様々な内乱が勃発し、多くの国事犯を生みました。明治18年(1885年)収容者は8万9千人と過去最高となり、監獄が飽和...

北方領土問題

日本は現在北方四島の領土問題を抱えています。北方四島とは根室の右上の国後島、択捉島、色丹島、歯舞諸島のことを指します。日本政府はロシア連邦が自国領土だとして占領・実効支配している北...